福岡県久留米市の内田龍司さん(53歳)は、酪農経営のかたわら全国の子供たちにカブトムシを無償で贈る社会貢献活動を続けてきました。しかし、2004年11月に完全施行した家畜排せつ物処理法により、27年間続けてきた活動は中止を余儀なくされました。そこで内田さんは、法令に特例処置を設ける構造改革特区に個人で提案することで打開策を見出そうとしたのです。その取り組みは多くの人の関心を呼び、マスコミ各社も好意的に取り上げました。当研究所でも以前発行していた機関誌『酪総研』で内田さんの活動を紹介(No.298、2004年9月号)し、多くの読者から好評を得ました〈当時の記事はこちら〔PDF〕〉。
このような経緯で「久留米カブトムシ特区」は、2005年3月28日に構造改革特区の特例処置に認定されたのです。それでは認定された特区は今後どうなるのでしょうか。構造改革特別区域基本方針には、一定期間の経過ののちに特段問題が生じないと判断された場合は、速やかに全国展開を推進する旨が記されています。つまり、カブトムシ特区も限定地域の特例処置から全国レベルの規制改革に拡大する可能性があるのです
ちなみに特区の認定状況を見てみると、最初に特区認定がおこなわれた2003年4月から2005年11月(第9回)までの累計件数は498件ですが、この他に210件がすでに全国展開されています(表1)。また農林水産省関連の特区は133件、この中の101件が全国展開しています。
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※)申出による計画取消 |
カブトムシ特区の主旨は、“青少年の健全育成を目的に、野積みの家畜排せつ物を利用して飼育したカブトムシを無償で配布する”ところにあります。よってカブトムシを売却し利益を得ることはできません。しかし特区運営には相当な経費がかかるため、仮にカブトムシ特区が全国展開されても賛同する人が現れるか、という問題があります。内田さん自身も特区認定を受けてから、行政機関との打合せやマスコミ対応、そして全国から寄せられるカブトムシ希望の声に応えるため、精神的にも金銭的にも余裕のない状況が続いているため、家族の同意もなかなか得られないといいます。
では、カブトムシ特区を維持・展開し続けるため、そして賛同者を得るための策はあるのでしょうか。内田さんはカブトムシ飼育後の堆肥に着目しています。以前からその堆肥で栽培した野菜は育ちが良く、一般の野菜よりおいしいとの声がありました。そして去年(2005年)の夏、秋田県のサクランボ園でカブトムシ飼養後の堆肥を使った肥効試験(6月2日堆肥散布)をした結果、堆肥未利用の物より糖度が上昇(表2)、最終的には23度まで上がったといいます。しかもサクランボの風味を生かす酸度がほとんど変化していない点も注目されます。この試験結果から内田さんはカブトムシ飼養後の堆肥は特殊堆肥として、そして、それから採れる農作物も差別化できると確信し、ブランド化を検討しています。
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2005年7月11日 秋田県果樹試験場調べ |
現在、堆肥と農作物の糖度上昇との関係はまだ十分に解明されていませんが、糖度で選別される温州ミカンは糖度上昇効果を期待して発酵品質の良い完熟堆肥を利用するといいます。また、成分調整堆肥や有機質肥料の利用は農作物の糖度を上げるという話も各地で聞かれます。カブトムシ飼育後の堆肥についても、今後さらなるデータの蓄積、他作物での試験、糖度上昇効果の科学的証明などの課題はありますが、成果次第でカブトムシが作る堆肥とその農作物は差別化でき、経済的効果も期待できます。
農林水産省は2005年4月に農林水産物等輸出促進全国協議会を設立、日本語の『おいしい』をデザインしたロゴマークを掲げ、農林水産業を「守り」から「攻め」の姿勢に転換すべく農林水産物の輸出促進に向けた総合的支援を打ち出しました。内田さんはこの事業を活用し、カブトムシブランドの農作物を輸出したいと考えています。内田さんは、「日本の工業製品ブランドは世界的に有名だが農作物は海外から攻められるばかり。今まで農家は国の政策に守られてきたが今後は通用しなくなるだろう。その打開策として国は構造改革特区や農産物輸出支援などの方法を示してくれている。あとは各自がどう活用するかという問題。カブトムシで農作物をブランド化できれば輸出も夢ではない」と抱負を語ってくれました。
内田さんは小学校やイベント会場で、「いつも牛乳を飲んでくれてありがとう」と言ってからカブトムシを配るといいます。これはカブトムシ特区が牛乳・乳製品消費によって維持されているという感謝の気持ちと、カブトムシで牛乳・乳製品消費に貢献したいという願いを込めた言葉なのです。今のところこの活動ができるのは内田さん一人だけです。しかし、カブトムシ特区が全国展開され、多くの賛同者が得られれば、牛乳・乳製品消費に大きな影響を及ぼす可能性も秘めています。
内田さんは、「東南アジアでは誰も見向きもしないカブトムシが、日本では子供の時代に誰もがカブトムシに興味を持ち、端午の節句に鎧甲を飾る。そう考えるとカブトムシは子供の守護神みたいなところがあるのではないか」と語り、日本人のカブトムシに対する特別な想いを感じるといいます。そんなカブトムシが酪農や牛乳・乳製品消費の理解のために活用できるとすれば、それは有効な手段になるでしょう。しかも首都圏近郊の酪農家が活動すれば、その地域特性からもさらに効果が高まると思われます。
「厳しい時こそ攻めに転じる。そこに規制が絡むなら、それを逆手に取れば良い」というのが内田さんの姿勢です。この考えから生まれたカブトムシ特区は、多くの酪農家が家畜排せつ物処理法への対応に追われるなか、内田さんだけに認められた“特殊な存在”でしかありませんでした。しかし、特区を支援する様々な立場の人たちの協力によって、着々と進展し広がりつつあります。そしてカブトムシ特区が全国展開されれば、酪農家の誰もが選択できるふん尿処理方法の一つとして、また社会貢献や酪農乳業をアピールする手段の一つにもなるのです。それは、内田さんの“異端児”にもみえる行動が規制の特例処置を生み、それが全国規模の規制改革に結びついた結果なのです。現在、酪農乳業界はWTO農業交渉の行方や、かつてない生乳需給バランスの崩れなど、一層厳しさを増す状況にあります。そんな情勢だからこそ、一見“異端児”のような考え方が、状況を改善に向かわせる原動力になるのかもしれません。
※特区の認定をうけた休耕田を無作為に掘り起こすとカブトムシの幼虫がいくらでも出てくる。その数は1m3当たり100匹(通常10匹程度)にもおよぶといい、このことからも堆肥の安全性が窺われる。