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No.5 科学的検証なき牛乳バッシングを憂える 北海道大学名誉教授 仁木 良哉

 本年3月、北海道で生乳890トンを廃棄処分するという北海道酪農にとって衝撃的な事件がおきました。このような状況の中で、牛乳について誤った情報を満載した健康指南書、いわゆる健康本がベストセラーとなり、牛乳の消費への影響が懸念されています。この本は内視鏡を専門とする臨床医によって書かれています。この中に書かれている牛乳に関する記述は、間違い、嘘に満ちたもので、50年近く牛乳の研究を続けている私にとって、初めて知る記述ばかりです。例えば、消化が良いとされている牛乳タンパク質を最も消化が悪いタンパク質と書き、酸化が起こる確率が極めて低い乳脂肪を過酸化された「錆びた脂肪」と、そして紀元前数千年前から食べられ、健康に良いとされ世界中の食卓を潤しているヨーグルトを最も悪い食べ物などと書いているのです。しかも、それらの記述についての出典は一切なく、著者の内視鏡を使っての観察だけを拠り所にして、総てが類推(妄想)で書かれています。さらに、この本の中には、単に牛乳についての誤った記述のみならず、現代の遺伝学に関わる極めて重大な誤りも記述されています。この本の副題は「ミラクル・エンザイム(酵素)は寿命を決める」とあり、しかも、著者はミラクル・エンザイムを「必要に応じて、どのような酵素にもなれる可能性をもつ原型となる酵素」と定義しています。一方、現在の遺伝学は「生体内の一つ一つのタンパク質はDNAに書かれた設計図(アミノ酸の配列順序)に従って生体内で生合成される」と述べています。酵素もタンパク質であり、ミラクル・エンザイムなど考えることすら出来ない筈です。さらに、「習慣が遺伝子を書き換える」と書いているのです。習慣でDNAをコントロール出来ると書いているのです。まさしく、現代の遺伝学を冒涜しているといっても過言ではありません。このようないい加減な本でも、出版の自由、言論・著述の自由の名の下で認められ、保護されてしかるべきなのでしょうか。私たち研究者は論文投稿の際、その論文の内容は複数の審査員により厳格にチェックされ、審査員と投稿者の間で、実験方法、結果、既に発表されている他の研究者の結果との相違などについての意見の交換が行われた後、論文の掲載の可否が決められるのです。さらに、掲載後、重大な偽りの記述やデーターの改ざんが発見、指摘されれば、研究者としての生命を失うばかりでなく、研究の場すら追放されます。一方で、今回の健康本の例のように、全く、科学的検証無しに、推論(妄想)だけで、あたかも事実であるように記述された本が、ベストセラーとして、誤った情報を発信し続ける事が許されています。この事は理解しがたく、憤りすら感じます。

 私は半年近く、この健康本を通して、出版の自由、言論・著述の自由とは何かと自ら問い続けてきました。しかし、この種の健康本は学会誌ではありません。一個人が本に書かれている誤りを著者に指摘する事は中傷、名誉毀損を意味し、また、出版の自由を妨げると非難され、現実的には不可能でしょう。この種の本でも、内容を規制すれば、まともな本の追放に悪用される危険性もあります。結局、読者が良く勉強し、本の内容の真偽を見極めることしか、悪質な健康本を追放する手段は無いのかも知れません。私は、現在、講演会や話し合いなど、機会あるごとに、消費者に具体的、かつ、科学的に今回の牛乳についての情報が如何に間違いであるかの説明に努めています。同時に、牛乳について正しい知識をもって貰うよう牛乳についての一般的な説明も試みています。しかし、一度、一般の読者に発信された誤った情報を一個人が払拭する事はほとんど不可能であることを身にしみて感じております。消費者の方々との集まりで知ったのですが、数十年前に発信された誤った情報、例えば、高温で殺菌すると良い乳酸菌が死滅するとか、カルシウムが結晶化して吸収が悪くなるとか、タンパク質が変性して消化が悪くなるなどの情報が未だ信じられているのです。一度、不特定多数の読者に発信された誤った情報を訂正することの難しさを改めて感じさせられています。

 去る9月5日に開催された北海道畜産学会の部門別討議の席で、今回の牛乳・乳製品に対するバッシングについての対応が話題になりました。その席で、私は牛乳生産者や乳製品会社関係の研究者が消費者に情報の誤りを直接、指摘する形でバッシングに対応するのは限界があると発言しました。中立の立場で発言出来る、また消費者に先入観なしに信じて貰える公的な研究所や大学に属する研究者がその任を果たす適任者だと思っています。例えば、学会や大学主催の市民への公開講座などを開催する方法や学校や病院などで栄養指導に携わる栄養士の方々にコンタクトをとり積極的に正しい情報を提供するなどの方法が考えられます。また、雑誌、新聞、テレビなどのメディアを使って消費者にアピールする方法もあるかも知れません。しかし、一方で、現実に、誰がこの任に当たるかの問題がまだ残ります。上に、公的な研究所や大学に属する研究者が適任と簡単に書きましたが、ここ数十年来、大学における牛乳に関する研究が牛乳の持つ三次機能の解明に集中して向けられて来ています。今回の問題は大学や公的研究機関での牛乳に関する分子レベルの研究テーマ(食品の三次機能に関する研究)とは著しくかけ離れた牛乳レベルの問題です。しかし、この誤った情報は広く消費者の間に残り続け、誤った情報の払拭には長い時間と努力が必要と予想されます。今回発信された誤った情報の払拭のために、中立の立場の研究者方々のご協力を心からお願いする次第です。

 牛乳は紀元前数千年も前から、食べ物として広く利用され、人類の生存に寄与してきました。また、牛乳は食品的機能に優れており、チーズ、ヨーグルト、バター、アイスクリームなど世界中の食卓に「食の豊かさ」を提供しています。私は牛乳が他の食品と比較して総ての点で優れた食品であるとは思っていませんが、極めて優れた食品です。偏った見方で牛乳を評価し、この優れた食品である牛乳利用の選択肢を我々から取り上げるような誤った情報の発信は阻止しなければならないと思っています。